県指定文化財

更新日:2021年01月15日

埼玉県指定文化財(20件)

埼玉県指定文化財一覧

名称

種別

所在地

旧本庄警察署

建造物

本庄市中央1-2-3

諸井家住宅

建造物

本庄市中央1-8-1

八幡神社社殿及び銅製鳥居

建造物

本庄市児玉町児玉198

競進社模範蚕室

建造物

本庄市児玉町児玉2514

本庄金鑽神社社殿

建造物

本庄市千代田3-2-3

絹本着色清拙正澄画像

絵画

本庄市中央2-8-26

木造阿弥陀三尊像

彫刻

本庄市児玉町児玉100

天龍寺の銅鐘

工芸品

本庄市児玉町金屋142-1

塙保己一遺品及び関係資料98点

歴史資料

本庄市児玉町八幡山446

元田の板石塔婆

歴史資料

本庄市児玉町元田263

台町の獅子舞

無形民俗文化財

本庄市本庄3-7

雉岡城跡

史跡

本庄市児玉町八幡山446

鷺山古墳

史跡

本庄市児玉町下浅見818-1

宥勝寺裏埴輪窯跡付靫形埴輪4点

史跡

本庄市北堀字前山

荘小太郎頼家供養塔

旧跡

本庄市栗崎155

岡登景能の生地

旧跡

本庄市児玉町高柳146-2

飯倉御厨跡

旧跡

本庄市児玉町飯倉841

金鑚神社のクスノキ

天然記念物

本庄市千代田3-2-3

城山稲荷神社のケヤキ

天然記念物

本庄市本庄3-5

骨波田の藤

天然記念物

本庄市児玉町高柳901

旧本庄警察署

2階建てで洋風の外観をした旧本庄警察署

 明治16年(1883)にコリント様式を採用して建設された本庄初の本格的洋風建築です。2階のベランダにはアカンサスの葉を彫刻した柱が並び、半円形窓や天井の灯火掛けのレリーフなど各所にモダンな意匠が見られます。

諸井家住宅

2階建ての諸井家住宅外観写真

 明治 13年(1880)の建築と推定されています。諸井泉衛が横浜の洋館を手本に建築し、当初は本庄郵便局と居宅を兼ねていました。後の秩父セメントの創始者諸井恒平など多くの有能な人材を輩出しました。

八幡神社社殿及び銅製鳥居

八幡神社社殿及び銅製鳥居

 永承6年(1051)源義家が奥州合戦の際にこの地に立ち寄り祭壇を設けて戦勝を祈願し、勝利後、再び立ち寄って石清水八幡宮を勧請したと伝えられています。現在の社殿は江戸時代の享保期に再建されました。

競進社模範蚕室

4基の高窓が屋根に乗っている競進社模範蚕室外観写真

 明治 27年 (1894 ) 木村九蔵が自ら考案した養蚕専用の蚕室です。内部は4部屋構造で、各室に炉及び吸気口が設けられ、天井は「こまがえし」と呼ばれる格子状の天井が特徴です。屋根には4基の高窓(越屋根)をのせています。

本庄金鑽神社社殿

周りに木々が植えられ、社殿の壁が赤色の金鑽神社の写真

 金鑚神社は中山道本庄宿の西端に位置し、本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。当社は弘治2年(1556)に本庄城を築いた本庄実忠により勧請され本庄領の総鎮守となりました。その後、本庄城主になった小笠原信嶺の庇護を受け、中山道の整備に伴って現在の位置に鎮座したと推定されます。

絹本着色清拙正澄画像

絹本着色清拙正澄画像

 清拙正澄は鎌倉時代末期に中国の元より渡来した禅宗僧で、鎌倉建長寺・円覚寺、京都建仁寺・南禅寺などの住職を務めました。本庄の開善寺と深いつながりのある長野県飯田市の開善寺の開山でもあります。制作時期は南北朝時代と考えられています。

木造阿弥陀三尊像

木造阿弥陀三尊像

 中尊は阿弥陀如来坐像、脇持の左が勢至菩薩立像、右が観音菩薩立像の三尊一具とよばれる構成をとっています。作風は平安時代初期の様相を強く残していますが、鎌倉時代に流行した作風も見られ、鎌倉時代中期頃の守旧派的な仏師の手による製作と推定されています。

天龍寺の銅鐘

天龍寺の銅鐘

 銅鐘は天龍寺山門の二階部分に吊るされていて、地元の鋳物師集団「金屋鋳物師」の代表的な作品です。天龍寺が所在する金屋地区は室町時代より金屋鋳物師が集住して活躍した土地で、この銅鐘は宝永8年(1711)に地元鋳物師が鋳造した作品としても貴重なものです。

塙保己一遺品及び関係資料98点

茶系の色をした巾着の写真

 盲目の国学者塙保己一の遺品をはじめ関係する各種の資料を塙保己一記念館で展示しています。保己一が生涯大切にしていた母きよ手縫いの巾着、保己一が江戸に出たときに着替え等を入れた素麺箱、群書類従刊行時の借用証文、肖像画などがあります。

元田の板石塔婆

元田の板石塔婆

 大型の板石塔婆で、正嘉2年(1258)の銘です。一石に三基の板石塔婆を表現した極めて珍しい三連碑です。

台町の獅子舞

台町の獅子舞が披露されている写真

 寛文3年(1663)より台町八坂神社に奉納されています。代々の龍頭は隠居獅子として保存され、祭礼日に御仮屋に奉納されます。

雉岡城跡

芝生や緑の木々が植えられてある雉岡城跡の写真

 雉岡城は別名を八幡山城といい、戦国時代に関東管領山内上杉氏が築いたと伝えられます。天正18年 (1590) に豊臣秀吉の軍勢のために落城、徳川家康の関東入国後、家臣松平清宗・家清父子が城主となり、関ヶ原合戦後松平家清が三河国吉田へ移されると、雉岡城は廃城となりました。現在は雉岡城跡公園となり、春には桜の名所となります。

鷺山古墳

田んぼの奥に見える鷺山古墳の写真

 全長約60メートル、最大幅40メートルの前方後方墳で、4世紀中葉頃の築造と考えられる埼玉県最古級の古墳です。本古墳は生野山と大久保山のほぼ中間に位置する鷺山と呼ばれる小丘陵上に築かれていて、南北の水田地帯を見渡せる位置に築造されています。

宥勝寺裏埴輪窯跡付靫形埴輪4点

宥勝寺裏埴輪窯跡付靫形埴輪4点

 6世紀後半の5基の埴輪窯跡が遺存しており、埼玉県を代表する貴重な生産遺跡です。

荘小太郎頼家供養塔

荘小太郎頼家供養塔

 荘(庄)小太郎頼家は児玉党の嫡流庄太郎家長の嫡男で、一の谷の合戦で討ち死にしました。この供養塔は五輪塔形式で頼家の供養塔と伝えられています。

岡登景能の生地

ブロック塀で囲まれた中に石碑が立っている岡登景能の生地の写真

 岡登景能は幕府の有能な官吏で特に上野国笠懸野の開拓に手腕を発揮しましたが、一部民衆の騒動に始まり部下の手代の行い等で追及を受けて責任を負って自刃しました。後世、地元ではその功労を再評価し、大正12年には従五位を追贈されて名誉を回復しました。

飯倉御厨跡

フェンスの奥に2つの石灯籠がある飯倉御厨跡写真

 寿永3年(1184)に源頼朝は私願成就のために伊勢神宮に武蔵国飯倉一所を寄進したことが「吾妻鏡」に見えます。また、伊勢神宮領を記した「神鳳抄」にも飯倉御厨の記載があります。現在飯倉地内字日向山に大神宮山とよばれる山林があり、昭和初期には豊受神宮の祠がありました。

金鑚神社のクスノキ

沢山の緑の葉をつけている金鑚神社のクスノキ

 江戸時代の本庄城主小笠原信嶺の孫忠貴が寛永16年(1639)に、金鑚神社の建立時に献木したものと伝えられています。根回り10メートル、高さ20メートルで、北関東では最も大きいクスノキです。

城山稲荷神社のケヤキ

城山稲荷神社のケヤキの木を下から見上げて写している写真

 弘治2年(1556)本庄実忠が本庄城造営時に献木したとの伝承があります。根回りは約13メートル、高さは30メートルほどあります。

骨波田の藤

藤棚に紫の花を咲かせている骨波田のフジの写真

 長泉寺の境内にある大小7本の藤は、藤棚約500平方メートル、花房の長さ1メートル以上にも達し、見事な花を咲かせます。見頃は、気候によって変動しますが、例年ですと5月上・中旬です。

入場料(開花期間のみ)大人500円小人300円。開園時間午前9時~午後5時

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局文化財保護課文化財保護係
〒367-8501
埼玉県本庄市本庄3丁目5番3号
電話:0495-25-1186
ファックス:0495-25-1193
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